こんばんは、南のママです👩
睡眠不足と何かで体調激悪なので、ゴロゴロしながら昔話でも😂
書ける事しか書けませんが、人によっては嫌な話もあるかも知れないので昼ドラ好きの方のみお付き合い下さい😗
あと1日ゴロゴロしながら書いていたら無駄に長くなってしまったので(なんと5000文字超えてます)お時間ある方のみ推奨😂
私は沖縄生まれ沖縄育ち、両親共に沖縄の人、悪そうな同級生はだいたい友達でした(笑)
沖縄のおへそ辺りで産まれたのですが、
今は亡き父がまぁ破天荒な人だったようでw
私が産まれたので母と結婚したそうですが、
なんとその時点で7人の彼女がいたそうな😇
我が父親ながら凄いクズっぷり、特別イケメンって訳でもなかったよ😂
日替わりなんてさぞ忙しい毎日だっただろう
そして1あまりになったのが私の母。
結婚後は釣った魚に餌はやらぬとばかりに
父は朝ごはんを食べに家に帰り、
お風呂に入って仮眠を取って家を出て行く
(仕事は何やってたのか不明😇)
そんな毎日だったようで
母は孤独だったろうなぁと思う
恐らく産後鬱になっていた母は
何度か乳児の私をアパートの2階から投げ捨てようとしていたらしい
孫が危ないと察した祖父母が
毎日朝早くから通ってくれていたようで
ありがたい事に私は今生きている👼
そんな赤子の私はいつ寝ているのか分からないほど眠らない子で
抱っこしていないとずーーっと泣いていたらしい
さらに強烈な人見知りだった
20歳の若い母には赤子ガチャ外れたと思われていただろうな😂
母は夜の仕事をしていたので、
生後数ヶ月で夜は乳児園に預けられる生活になった私。
昼間はどうしてたんだろう?
祖父母降臨してたのかな🙃
そんなこんなで数年
色々あった父と母は離婚し
母は子どもを連れて実家へ🏠
煌びやかな夜のお仕事をしていた母は
沖縄の百恵ちゃんと呼ばれる程可愛かったらしい
あとフィリピン人にフィリピン語?で話しかけられるほどフィリピーナっぽくもあったらしい
(本人談、百恵ちゃんとフィリピンって繋がらないんだけどいいよね😇)
そんなわけでモテモテだった母は
実家では幼い私と妹をほったらかし
数日〜数週間帰ってこない事もあったとか
(あれ?一応朝ごはん食べに帰ってきていた父の方がマシに思えてきたぞ?)
夜中起きてしまった私が、母の帰りを待って玄関の外でちょこんと座ってシクシク泣いていたのを朝方帰宅した母が見た時はさすがに胸が痛んだらしい👼
そこから小学校3年生までは
ほぼ、おばぁとおじぃにすくすくと育てられた👧
祖父母宅での生活は
同じ敷地内に従姉妹達も住んでいたし
周りはさとうきび畑で
毎日自然の中を遊び回って
なかなか楽しかった記憶✨
母の記憶はあまりないが、
夏の週末はいつも海に行っていたのを覚えているのでちゃんとかまってくれていたんだと思う🏖️
そういえばお客さんのオジ様の船でクルージングしたりしてたな、バブルの余韻ですなぁ🫧
父も月に1度電話を掛けてきて、誕生日やクリスマスはプレゼントを持ってきてくれる事もあった。
父が長期の出稼ぎに出ていた事もあり、その時には手紙のやり取りをしていた記憶がある。
父は大事にその手紙を持っていたようで、
他界後に遺品として
私の元に返ってきた手紙を見たのだが、
ただひたすら…
マウンテンバイクをねだっていた(笑)
『マウンテンバイクが欲しいです』
『なんでお金を送ってくれないんですか?』
『お母さんの彼氏に買ってもらったのでもういいです』←悪魔😈鬼👹
なんて酷い子どもだったんだと笑えた😂
こんな手紙を大事に取っていてくれた父の事を思うと…まぁ泣ける事はなかったが可哀想な事をしたなとちょっと思った😂
さらにその後、母から私達は父に捨てられたんだと吹き込まれ(半分あってるけど)電話が掛かってきても私が電話に出る事はなくなり文通も途絶えた。
小学3年生の冬、
母独り立ち!(祖父母と喧嘩して家を出た)
もちろん私と妹も一緒に転校。
野生の猿のように育ってきた私は、ちょっと都会な転校先ではあまり馴染めず1ヶ月不登校になったりしていた。
そして、
4年生の後半に新しくお父さん2号がやってくる👨
このお父さん2号がDVや虐待と言われるような事をする人で、私はこの辺りから夜逃げのように家を出る高校3年生のバレンタインデーの日までの家の中での記憶はあまりない😂
中高は学校での事や遊んでた事はある程度覚えているんだけど、小学生時代は学校の事もほぼ覚えていない🤔記憶力−😭
確か中学1年までは勉強も部活も普通にやっていて、出来ない子なりに頑張っていたと思う。
席次は学年真ん中辺りの平凡な子。
英語はこの頃から苦手だった(笑)
中学2年に上がった頃からヤンキーと呼ばれるような同級生とつるむようになり、家に居たくなかった私は夜な夜な家を抜け出しては遊んでいた🥳
そんな日々は楽しかったけど、根が真面目な私(自分で言う)はその集団の中でもどこか浮いていて、本当に安心できる自分の居場所が欲しかったけどそんなのはどこにもなかったんだ🙁
中学3年の時の担任は若い先生で、
ある初夏の日、職員室に呼び出されて『〇〇はあんな素行の悪い子達と一緒にいて楽しめるような子には見えない、無理しているんじゃないのか?何か悩んでいる事があるのか?』と言われた。
浮いているのは自分が1番分かっているけれど、
職員室で突然そこを突っ込まれ、
家のことを話す気にもなれず、
友達や自分を否定されたように感じて泣きたくなった。泣かなかったけど😎
さて、受験生になっても
夜な夜な遊び歩いていた私だが、
謎に高校には行くものと思っていたので(←母の最終学歴が高校だったからかも)
中2の夏から学校の授業以外の勉強をしていなかったのに、
特に受験勉強などもせずにそのままの状態で受けられる高校を受験した(笑)
連んでいた同級生は、お医者さんの娘や親が経営者といった子達を除いてほぼ中卒で仕事をする事を選んだ。
いや、選べなかったからそうするしかなかったが正しいかな。
だってその子達はほぼ学校立ち入り禁止だったから(笑)
髪の毛染めてるし制服着崩しているしピアスあいてるしで自業自得と言われたらそれまでなんだけど、義務教育で学校立ち入り禁止ってなんなんだろうね😂
子どもの教育を受ける権利はどこに?😂
まぁみんな給食食べに来てたんだけど。(これに関してはカムさんが実体験と妄想の良い記事書いてました!文末にリンク貼っておきます🔗)
中卒で就職となったが、もちろん普通の会社員になんてなれず、さらにアルバイトでコツコツなんて考えないので、女の子はみんな夜のお仕事へ。(違法だよね、雇う側の大人の問題だと思う。今はどうなんだろう🤔)
男の子は土方💪
田舎の低所得民、選択肢は親が歩んできた道以上には広がりにくい問題。
そして私は偏差値30ぐらいの高校へ進学
(その時は偏差値なんて知らなかったよ!なーんにも考えずに「行けるとこどこですかー?」って担任に聞いて決めた😂)
夢も希望もなくダラダラと悪そうな仲間達とつるみ
夜な夜な家を抜け出して遊びまわる生活が続く💨
高校はまぁまぁ楽しかった😁
勉強に関しては、
理科の生物のテストで100点取った事と
数学で「なんでこうなるのか」が知りたくて先生に聞きに行ったら『そんな事は知らなくていい、とりあえずそう解くと覚えろ』と言われ数学が嫌いになった事ぐらいしか記憶にない(爆)
ひたすら
ルーズソックス履いて
制服のスカートはミニで
なぜか髪色だけ厳しい高校だったので黒髪で
すっぴんで登校してバッチリメイクで校門を出て
小さな町で
プリクラ撮って
LAWSONにたむろする
そんな毎日を過ごした高校時代。
もちろん大学進学なんて考えている生徒はほぼいない。
あ、そうそう、私自身が薬物に触れる事がなかったのだけは幸い、周りには溢れていたよ。
そしてなぜ、中学からずっとその場所にいる事に違和感を感じながらも夜な夜な遊び歩く事を私が選んだのか…
それは私自身の身を守る為だったよ。
大人の身勝手な暴力と性からね。
環境って本当に大事なのだ。
どこかで勉強する道に引っかかっていたら、
そんなふうに今なら思う。
でも夫と出会う20代前半まで、
中高校時代の環境の延長で生きていたので、
大学に行きたいとか行けば良かったとか微塵も思わなかったよ!
夫は内地でお坊ちゃんとして生まれて
義務教育期間を海外で育ち
日本の良い高校良い大学を出て
どこで道を間違えたのか沖縄に住みついたらしい(笑)
見た目はもろ日本人、中身は超外人な夫。
フィリピン系ギャルな顔立ちが好みな夫。
顔面のみで私を選び今に至る🤣
夫のご両親は私の両親とは比べ物にならないほど雲の上の存在の方々で、
私のような底辺女に息子がたぶらかされた!と、長女が年長ぐらいの時まで孫にも会ってくれなかった😂(こればっかりは仕方がない)
でも今は毎年年末は沖縄で過ごしてくれて、
娘達もじーじとばーば大好きだ❤️
私の事も理解してくれて、本当にありがたい☺️
そんな夫の価値観に触れて、
そして夫と出会った後に転職した今の会社に就職してから、
私は初めて大学に行くべきだったと思った。
そう、管理職になるためには大卒の肩書が必要なのだ…
それだけじゃない、仕事をする上で必要な考え方や勉強の仕方等は大学へ行くために頑張って勉強してきたから習得出来ているんだと思う。
そして大学で学ぶ事は社会に出てから必要な事が多いんだと思う。
行っていないので私が大学へのコンプレックスや幻想からそう感じているだけなのかもしれないけど、やはり底辺高校卒の私には勉強や努力の仕方・一般常識?的な事が分からない😇
夫を見ていても、そういうスキルはどこで身に付けたの?って事が多々あって、話しを聞くと、「誰でも大学でやってる事だよ」って言うしね。
なので、子ども達には後悔しない環境に身をおいて欲しいと思っている。
人は易きに流れるものなのでね。
流れに任せている間は楽ちんだけど、
やっぱりどこかで後悔すると思うから!
話がとっ散らかってきたので、
そろそろお開きとしましょうか😂
4000文字超えてて草🌱
最後に私と実父の嘘のようなドラマのようなお話しを。(まだ話すんかーい🫱)
あれは、高校1年の終わり頃。
家を出たかった私は『そうだ!私には父がいたじゃないか!』と思い出し←😇
祖父母がまだ連絡を取っていると聞いたような気がしていたので、さっそく祖母に連絡先を尋ね(なんと、祖父母と父はまだ交流があった!)ドキドキしながら父に電話をかけ、お互い他人行儀な感じで家の近くのコンビニで会う約束をした。
約束の日、私は時間ピッタリにコンビニに着いた。
キョロキョロするが、コンビニ前には男性客数人と若者のみ。父はまだ来ていないようだ。
しばらく待つが、来ない…
しゅんとなり、コンビニに入り立ち読みする私🏪
そこに父から電話📱🤙👨
『ずっとコンビニの前で待ってるんだけど、〇〇まだ来てない?』と。
『えっっ😳』となった私はドキドキしながら電話したままコンビニの外に出る…
すると、なんと、電話の相手は、外で待ってる間ずっと隣にいたオジ様ではないか🤣
父も私もお互いの顔がわからず
親子で隣り合って立っていたのに
お互いずっと相手を待ち続けていたんだよ😂
何このドラマみたいな展開ー😂って父と2人で超笑いあった(笑)
10年近く会っていなかったから、分からなくもなるか😂
この話は父が亡くなるまで、私と父の中で最高の笑い話として語られる事になったんだ😆✨
いやぁ〜本当にドラマ(笑)
ちなみに父は再婚していて私の家出計画は言い出す事も出来なかったにゃ😇
さてさて、文中でお話ししたカムさんの記事。
同じ沖縄での話しだけど、カムさんのような大人が居たら、違う道を歩いていたのかなと↓の記事を読んで少し羨ましく感じたよ〜カムさん😂
カムさんの妄想が現実になる日がいつか来るといいな☺️
5000文字超えた〜
本でも出そうかしら?😇